第3回 自己肯定感=自信過剰??
人材育成において、人事の皆様から最近よく伺うようになった言葉があります。
それは、「自己肯定感が低い」という表現です。実際に個別で面談などすると浮き彫りになっているようです。特に20代中盤から30代前半の若手から中堅層の皆様の課題として挙がることが多くなりました。
内閣府の調査では18歳~29歳で「自分に満足している」と答える方は45.8%、自分には長所があると答えている方が68.9%という結果があります。国別の比較となっており日本は他国と比べても低い水準にあります。
実際、現場の管理職の皆さんはどうとらえているのだろうと、研修の中で投げかけ対話をしていただくと、興味深い反応がありました。
「自己肯定感はむしろ高いと感じる人が多い」
人事の皆様とは逆の反応が返ってきたのです。よくよく伺っていくと、どうやら自信を持ち、人の言うことに耳を貸さないような人も多いというのです。
皆様の職場ではいかがでしょうか。
また、なぜそういった現場での印象と人事の皆様の印象で差が出ているのでしょうか。
私はどちらが正しいか、どちらが間違っているのかということではなく、どちらも正しいように思うのです。
ここで一度定義したいことは「自己肯定感」という言葉です。
これは「今の自分自身を肯定的に受け止める」という表現で、強い自分や弱い自分も含め、自分自身をそのまま受け止めようとする姿勢であり、その支えとなるのは周囲からの認知や感謝です。どんな自分であっても自分が存在することに意味があり、周囲から必要とされている。そう感じられる中で自分自身を徐々に認め、受け止めながら前進していくことができます。
一方、自信過剰というのは別の表現を取ると仮想的有能感と表現されることがあります。この仮想的有能感というのは相手が自分より優位であるという不快感をバネに,相手に勝とうと思い,そのために頑張れるような嫉妬が背景にあると言われています。自分の中で他者と比較し、優位性を保とうとする過程において生まれている感情です。これは表裏一体ではないでしょうか。
昨今、あまりの現場の忙しさによってマネジャーが人をじっくり見ることができない環境にあります。一方で多くの部下は自分をあまり見てもらえていないことに不満を抱き、自分自身がどう見えているのかわからなくなります。さらにその不安が大きくなります。そうすると自分自身を認め自分を鼓舞できるのはほかの誰でもない、自分自身であり、誰よりも頑張っていると思いたくなるのです。周囲からの適切な認知や感謝のない中で自分自身の存在意義を見出せなくなることが仮想的有能感を高め、周囲から「自信過剰」と言われてしまうような振る舞いにつながってしまうのです。これまでお会いしてきた部下側の立場の皆様のお話を振り返るとそんな過程がありました。
自己肯定感を高めることは周囲への貢献意識を高め、自ら新しい価値の創造に向けて動こうとする主体感を生み出すことにつながります。それが新たなチャレンジにつながり仕事に喜びとその人自身の成長を促すことにもつながります。その鍵は相互の認知です。
認知するとは褒めることであるという単純な理解から、認知は自信過剰を助長するのではないかというマネジャー側の誤解をよく耳にします。このようなこともあるので研修の中では、認知については褒めることではなく、自分から見えている相手の変化や印象に残った様子についてそのまま伝えることと伝えています。このようにお伝えすると多くの方々のハードルが下がるようです。
何もないのに褒めることほど不自然なことはありません。そして、認知は上司だけが行うものでもないのです。しかし、よい認知を行うためには普段からよく見ていないとできないことも事実です。自信過剰を生み出している背景にこうした適正な認知がなく周囲の中で存在実感を失っていることを知っていただく必要があるかもしれません。結果的に、主体性を失わせ、自ら動かないことに悩まされてしまう。こんなことにならないように今一度職場で働く一人一人の自己肯定感に意識を向けてみることをお勧めしたいと思います。
14.もう一つの、この世界(Ⅰ)
まだ昭和という時代の事。
その日、旧い江戸期の建物を改造した日本家屋のお座敷で一人遊ぶ子がいた。
プラレールという鉄道のおもちゃに夢中になって。
ようやく完成したレールに列車を載せて動き回っていると、祖父が、襖(ふすま)を開けて入って来て、新しい歌を教えてくれた。
「どうして橋が落ちるの?」。
「お船が下を通るために、真ん中から開くのだよ」
「こうやってね」
そう言って、両手で橋が開く仕草をしてくれた。
数十年後、はじめて現地に行った時、それがロンドンブリッジではなく、タワーブリッジだと知った時、思わず笑った。と同時に、その時のシーンが、極めて日本的なお座敷のシーンが、畳や襖、床の間や縁側のシーンが、蘇った。
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その日、明るい日差しが差し込むモダンなオフィスで、仕事に没頭していた。
ビジネスというレールの上で没頭して。
まだロンドンに来てから数ヶ月。
気持ちいい金曜日なのに、慌ただしくタスクをこなしていた。
ようやく午前中の仕事を完成し、ランチを買いに行こうとした時、隣のチームの同僚からのメイルを発見した。
「私たち数名で、Borough Market(バラ・マーケット)に行くけど、行かない?」
自分が所属したチームは国際色に溢れていたけど、隣のチームは、ほぼ英国人で構成されていた。恐らく、弁護士資格が必要、または、その候補生がメインだったから。
(バラ・マーケットって、どこだ?)
ネットで検索する。
(あーあそこの事か・・・)。
ロンドンブリッジの袂、世界中の人々が集まる露店市場(いちば)。新鮮な野菜や、それ以上に、ロンドンでは珍しく新鮮なシーフードも売っている。ランチタイムは、出来たてのフードを買って、多くのビジネスマンや観光客が食事をする。ロンドンの中でも、極めて"グローバルな場所"。
(歩いていくと、ここから5分くらいか・・・)
カレンダーを見る。
その日に限って12時半からプロジェクト・メンバーとの予定が入っている...。午後も一杯。
メンバーのデスクを見ると、既に席にいない。新しいメンバーだけにドタキャンはかわいそうだ。
すぐにメイルに返信する。
「声をかけてくれてありがとう。でも、今日は打ち合わせがあるので、ごめんなさい。次回に」。
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その後、隣のチームのメンバー達とは、ちょっとしたプロジェクトで一緒になったり、金曜の帰りにパブで(極めて英国風のオーセンティックなパブで)飲んだりする機会を得たけど、そう言えば、バラ・マーケットで一緒にランチすることはなかった。
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これからの時代も、グローバリゼーションとアイデンティティとの間で多くの確執、葛藤、時に衝突が起きていくだろう。
けれど、日本の新世代の人たちには、いや、世界中のミレニアル世代の人たちには、その相克を乗り越えていって欲しい。
たぶん、どっちも大事だから・・・
どうやったら、そのジレンマを越えていけるのだろう?(次回に続く)